主語を使って話そう

前回の続きになりますが、「私はこう思います」と言えることは思いのほか重要です。何が重要かというと「責任の所在を明確にすること」ですね。

経験談をひとつ。私が25歳の時です。当時はエクステックとは違う企業に第2新卒で営業事務として入社しており、企業での働き方をまだ身につけていない頃合いでした。
ある出来事について営業部長に報告をする際、疑問を抱いて「こうした方がいいんじゃないかと……」と今ひとつ自信なさげに話しておりました。そうしますと、私からそのような意見が出てくることがあまりなかったからでしょうか。「営業の先輩が何か言っていた?」と質問をしてくださいました。
先輩が何かを仰っていたわけではないという事実や、そう思ったキッカケとなる根拠をしどろもどろになりながら説明をするのですが、どう伝えたらいいか分かりませんでした。
悩んだ末に「私はこう思います」とお伝えしたところ「よし。じゃあそうしてみよう」と意見を採用していただいたのです。
立場的にも一番経験が浅く「先輩たちの言うことには従わないといけない!」と強く思っており、「自分の意見を伝える」という発想がなかったので、深く印象に残った出来事です。

実際のところ、立場上の振る舞いには気をつけた方がよいですが、誰かに何かを伝えるにあたって年齢は関係ありません。あらゆる年代の広い視野でもって物事は多角的に見ることが望ましいですから。
振返ってみると、つたない説明にも関わらず途中で口を挟まずに聞いていただけたからこその体験だったとも感じます。相談を受ける側としても見習わなければなりませんね。

では、比較のために「責任感のない伝え方」も例に出してみましょうか。

「みんなそう言っています!」

人生のどこかで聞いたことがあると思います。極端な話、これは脅しです。日本の不思議なところですけれど、数の力で自分自身の意見に説得力を持たせようとする人は少なからずいらっしゃいます。ところがこの「みんな」というのはどこからどこまでの範囲で誰を指しているのかと疑問に思って「具体的にどなたがいらっしゃいますか?あなたからお話を聞いたと伝えた上で、直接お話を伺ってみます」と申し出ると、「そこまでしなくても……と」急にモゴモゴと口を淀ませる方が多いです。
実際は根拠がないのですよね。仮にその人の周りが言っていたとしても広い世界で見れば少数なこともあります。つまるところ「私はそこまで責任を持ちませんけど」という暗黙の意思表明なのです。

ただし、事実であって具体例が出てきたり、「みんな」の定義が「署名活動によって抗議を表明する」という方法であれば正当なものでしょう。「みんなの総意を代表して私が意見します」ということになります。きちんと裏付けをとっていただいた意見を「どうせハッタリでしょう」と色眼鏡をつけて見ると大事なものを見逃してしまいます。事実と推測を分けて捉えるべき理由がここにありますね。

あなたが聞く側の立場になるとしたら、どんな伝え方が迷うことなく受け入れやすいでしょうか。
ご参考までに。

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